人生とコード

僕の生活の一部にGithubがある。 僕の思想の2割くらいを占めるだろう。 一日に何回もチェックしているし、git pushしたときには喜びを感じる。

最近、HP作成の仕事を受けた。 Vueで開発し、もちろんそのコードをGithubで公開した。 僕は作成するHPにはOctocatのロゴを記載し、aタグでリポジトリへのリンクを張るのがスタイルだ。 今回はfooterのcopyright横にOctocatを記載した。

先日、同い年の女の子とランチに行った。 彼女とは定期的にランチに行き、他愛もない話をする。 今回もその延長で、「最近HP作成を作ったんだ」という話をして、HPを開き、スマホを見せた。 「へーすごい」と彼女は相槌をして、スクロールしている。 その後に発した言葉に僕は人生を感じた。 「ねこちゃんかわいいー」。 ねこちゃん・・・???僕は思わず、戸惑ってしまった。しかし、次の瞬間にこうも思った。 「ああ、この世界に来て良かったな」

僕は現在はコードを書く仕事を専業としていない。 その選択をすることには葛藤があった。 僕は何もないと一日のほとんどをコードを書くことに費やしてしまう。 それが裏目に出て、健康は良くない。良いプロダクトができず、精神的にも追い込まれる。そんな日々が続いたことがあった。 このまま プログラマとしての成功=人生の成功 とする方程式のまま生きると、人生が破綻するなと思い、コードを書く以外の仕事を選び、余暇でコードを書くことにした。 それまでの人間関係なら、ランチでHPを見せたら、〇〇の技術はどうだ。READMEはちゃんと書いているのか。そんな話になったであろう。 しかし、僕が選択した世界では、「ねこちゃんかわいいー」となる。

僕の最近は極めて幸福だ。人生の幸福を日々実感している。 現在の人間関係では、誰もGithubなど知らない。誰もstar数を気にしない。 僕はそんな世界が好きで、とても有り難いと思う。

あの時とても葛藤して選択してから、二年が経つ。 いつか、あの時の選択の是非を判断しなくてはならないと思い、日々生きてる。 今はまだそれを完全に判断するタイミングではないと思うが、 とりあえず良い選択であったのではないかと思っている。

他人の人生、自分の人生

「あのような人生を送ってみたいものだ」

時として人間はそのようなことを言う。現在の自分の人生に納得していない人ならまだしも、不満がない(満足しているわけではない)人でも言ってみる。

これ、なんだろうなと思う。

納得していない人が言う分には理解出来る。しかし、不満がない人が言う場合は気をつけなければならない。

 

憧れる人生があるということは、現在の自分の人生より望ましい・優れた人生があるということである。より納得いく人生を送るためには、憧れの人生を自分のものにしなくてはならない。そこで問題は生まれる。仮に、憧れの人生を手に入れようとする。しかし、時間・空間的に見ても絶対にそのような人生を手に入れることはできない。では、諦めよう。しかし、そうすると現在より優れた人生を知りながらも、それを手に入れることができないわけで、絶対的に最高な人生を生きることができない。これが問題なのだ。このことを暗黙的に気づきながらも表面に言語化されて現れないため、扱われることが少ない。

 

ではそのような時、人間はどうするか。一つとしては「逃げ」であろう。その問題に気づいていないフリをするのである。もう一つの方法としては、自分に出来る限りの中で、憧れの人生を超える憧れの人生を生きることである。

僕はF氏にはなれないのだ。いや、そもそも自分はF氏でないのだ。だったら、F氏になる必要なんぞない。あの人生は参考例なのだ。本当に自分が歩みたい人生が何なのかを知るための、比較例に過ぎないのだ。そうやって、色々なものと比較していく中で、真実を見つけていくのだ。

しかし時として、参考例だということを忘れ、絶対例だと思い込む時がある。そうするとうまく回らない。だって、それには届かないのだから。そして、そもそも届く必要がないのだから。

F氏の人生は良さそうなものに思える。けれども、これまでの自分の人生を振り返ってみても、別にF氏の人生に劣るものでもない素晴らしいものである。そして自分には、もっと素晴らしい人生を創造するための未来があるのだ。 これほど偉大は天然資源はない。しかし、これはあくまで資源だ。資源は加工しなくてはものにならない。だから、加工しなくてはならない。憧れを自らの手で作り上げるのだ。

年の瀬に考えていたN個のこと

2016年も5日が過ぎた。正月休みも明けて、明日から大学が始まる。2015年の終わりから2016年の初めにかけて僕はどうだったかというと、精神的にやられていた。ずっと何かに押しつぶされて、胸が締め付けられる思いだった。そのような中で頭にあった事を記そうと思う。

 

hard work

これはmidnight expressの最後で沢木耕太郎さんが言っていた言葉だ。聞いた瞬間に来年のテーマはこれだなと思った。

昨年の12月、コンテストで良い結果を残した。それは嬉しかったが、その後はとてつもない虚脱感に襲われていた。コンテストの結果がプレシャーになっていたのだ。

昨年の夏ぐらいから、価値のあるものを作ろうと考えていた。いや、価値があるものを作れないようではダメだなと思っていた。しかし、コンテストでは結果が残っただけで、価値は生まれなかった。

プログラミング能力がついてきているのは分かる。しかし、プログラミングはプログラムを作る作業のことを指すのであって、作業能力が上がったところでその目的が充分なものでなければ意味はない。だから、プログラミングよりもプログラムに重きを置く必要性を感じていた。

そこで、今年はプログラムの内容を重視するべきだと考える。具体的に述べると、これから研究室に配属されることとなる。研究テーマはCV系になるので、それを充分な価値あるプログラムとすることで、目的が達成されそうである。

しかし、そこに行き着くまでにはhard workが必要なんだなと感覚的に思う。この一年がこれからの自分を左右する重要な時期になるのであろうと感覚的に思う。プログラマとしての自分、研究者としての自分、人間としての自分。そして、自分としての自分。これから、自分が自分であり続けるれるために必要なことがhard workの先にあるように思える。

 

simple thinking

自分の癖として、物事を深く・抽象的に考えてしまう。深くの方は良いと思うが、抽象的な方は良いとは言い難い。抽象的に考えてしまうと、迷路に深入りしてしまう。そうなると、形になりにくい。先程も述べたが、価値というものにコミットしなくてはいけない。価値は形あるものに与えられるものであるから、価値を生むためにはまず形を創り出さなくてはいけない。だから、どんなに小さな形でもいいので生み出していく必要がある。そのために、抽象的に考えずsimple thinkingすることが大切だと思う。

 

環境

年末は中学の同級生と集まった。みんな大人になっていたし、いい顔をしていた。たぶん彼らは現在、良い環境にいると思う。でなければ、あのような顔はしていない。だから改めて、環境は大事だなと思った。素敵な環境を選ぶことができるのは、とても重要な能力である。

今年は環境を選ぶことが多くなるので、よく考えなければ。

 

年変わり

12月31日から1月1日になるのも、4月17日から4月18日になるのも同じことである。だから、年が変わって今年は頑張るぞみたいなのは好まない。普段の何気ない1日で変わることができなければ、年が変わって変わることができるはずがない。しかし、これまで僕は今年は〜という形で記述してきた。これは単純にタイミングの問題である。コンテストが終わったのが12月10日。結果が発表されたのが20日。そして、そこで精神的にやられた。だから、精神的なものを払拭するために天文の力を借りようと思ったのである。どうせ元から年末はグダグタする予定だったので、無理せず休んで、新しい風に乗った方がやりやすいと判断した。むろんこれからは、何気ない1日で変化できるようにしておく。

 

具体性

ざっと書いてみたが、具体性に欠けていそうである。だから、次に具体的なことを書きたい。しかし、これは目標でも決意でもない。やってもいいのではないかというものをあげてみる。

ソースコードを公開する

・個人ブログを始める

・論文、専門書をたくさん読む

APIやライブラリを作る

・文学を読み漁る

・コミュニティに参加

・TLする

 

結果として

まずは、研究に入る準備として、CVの基礎を勉強することから始めるのが良いのではないでしょうか。そうすれば、上記のことにも繋がりそうです。

近々のこととしては1月末までに、グループプロジェクトでRubyプログラムを作成しなければならない。2月末にラスベガスに行くために英会話を取得しなくてはならない。

しかし、どちらもやる気がでません。あまり興味が湧かない。

追い込みすぎると、またまた精神的にやられそうなので、ほどほどにしなくてはいけない。ここで、年末に友達に語ったことがプレッシャーとなりそうだが、これくらいは乗り越えなくては面白くない。さあ、やりましょう。

あっ、論文を読むこともいいかも。とりあえず、研究室に行き、CV入門の本を借りてくる。CVの論文を読み始める。このことから始めようか。

 

行き詰まり

半時間ぐらいでは何もできないと考えているより、世の中の一番つまらぬことでもする方がまさっている。

by ゲーテ

行き詰まった時にぐずぐずしても良くないので、何をすれば良いか困った時には新しいプログラミング言語を勉強するしたらいいと思う。楽しいし、精神が復活するにちがいない。未来の自分がこれを見るときが何回かあるだろう。そのうちに、何するか困っている時が一回はあるだろう。新しいプログラミング言語を勉強せよ。まだまだ、知らないパラダイムがたくさんある!楽しいぞ。

あと、周りに色々話すとやる気がなくなるので、色々話さない方がいい。自分だけの秘密にしてるとモチベーションが高まる。周りは何も知らながゆえに、何も言ってこない。最高ではないか!

住宅街イルミネーション

クリスマス。一年に一度の特別な日に街は賑わう。イルミネーションは人々に活気をもたらす。だから、イルミネーションスポットは人で溢れるのであろう。有名イルミネーションスポットは、お金をたくさんかけてより華やかになるようになっているのがほとんどだ。とても綺麗なものである。ところが散歩をしていると、あることを発見した。

住宅街を歩くと、庭やベランダや窓に装飾を凝らす家を多く見かける。個人でやっているということで、もちろん有名イルミネーションスポットにはかなわない。でも、僕はそれらを好む。なぜだろうと考えると、それらは電気の照明だけではないのだからだなという考えに行きついた。住宅街のイルミネーションにはLEDの光だけでなく、窓から漏れてくる家庭の灯も含まれている。その灯の温かさが僕を引き付ける。見惚れさせる。だから僕は住宅街イルミネーションを好むのだ。

僕もいつか家庭を持ち、温かみのある灯を放つのであろうか。

情報パラダイム

mainichi.jp

www3.nhk.or.jp

 

 最近のニュースで特にこの事件に興味がある。というのも、このニュースを見た時に次のようなことを思ったからである。

 

「完全に科学がパラダイムになったのだな」

 

 ワイドショーのコメンテーターは、「インスリンを与えていれば大丈夫なのに、それを止めさせたというのはおかしい」というようなことを言っていた。しかし、思った。この人は、インスリンがどの程度糖尿病に効くのか科学的に分かっているのかなと。

 

 そして、両親は「わらにもすがる思いだった」と言い、医者の助言を無視して、祈祷師の言いなりになったとあるが、これは15世紀以前では当然の光景だったのではないかと思う。15世紀以前なら、科学者が「その子にインスリンを打ちなさい」なぞと言えば、「いつも顕微鏡ばかり眺めているお前なんかを信じられるか。あの方はキリストの子孫なんだぞ」なぞと言い、祈祷師にすがっていたに違いない。

 

 もし、これが100年後ならば、両親は「Pepperちゃん、どうしたらいいの?」なぞと言うだろう。そして、Pepperは国際医療AIに問い合わせをする。すると、国際医療AIは過去の治療データベースから糖尿病の良い治療方法を検討する。その結果、インスリンを打てば良いと判断し、Pepperに情報を送る。そして、Pepperは「病院でインスリンを打ちましょう」と答えるだろう。

 

 しかし、国際医療AIが送った情報がクラッカーに傍受され、その内容が書き換えられたらPepperは言うだろう。「私がさすれば治ります」と。

 

 

 デカルト以降、科学は客観性を持っていて正しいというようになり、科学がパラダイムとなったが、その科学の妥当性について本当に知りえるのは、その分野の研究者のみであろう。今回の場合、医者は本当にどういう原理でインスリンが糖尿病に効くか分かっているが、それ以外の人間にはそんなこと分かるまい。結局は、研究者が研究し、客観性をもっても正しことを論文にまとめ、それをその研究者以外の人間が見て、間違いがなければ、それは「真理」となり、正当性をもって一般に広まっていく。そのようにして、科学のパラダイムが出来上がる。

 

 そうなると人類は、確かに誰かはその真理を突き詰めたかもしれないが、自分はその結果だけしかしらず、その過程は分からないというようになる。そう考えると、「科学パラダイム」には自分の信念はほとんど含まれないということになる。「科学パラダイム」以前は信じるものが真理であったから、自分の信念で世界が構成されていたことになる。

 

 しかし、これを批判する気はない。「科学パラダイム」になって、間違いなく人類は飛躍的に成長した。しかし、一つ思う事がある。現在はコンピュータがあふれ、現実におけるサイバー・スペースの割合が増してきた。そのようなとき、「科学パラダイム」のままでいいのかと。これからは、情報量がますます増え、情報のもつ意味が重くなっていくだろう。そうなると、「情報」がパラダイムとなる世界ができるであろう。しかし、「情報」というものは目には見えない。科学的にも証明できないものである。

 

 人類は15世紀以前は宗教、それ以降は科学にすがってきた。そして現在、我々は情報にすがって生きている部分は大きい。そして、これから益々、情報にすがっていくだろう。しかし、宗教・科学は時間をかけてより確実なものになるように歩んできたが、情報は違う。出来上がるのも、複製も改変も即座にできてしまう。情報は「確実」にすがるというのが難しいものである。そのようなとき、我々は情報とどのように関わり、どのようにすがるべきか。考えなくてはいけない。

ビニール傘

新しい靴を買ったときは、外に出るのが楽しみになるだろう。

新しいスマホカバーを買ったときは、電話に出るのが楽しみになるだろう。

 

人間、新しい物を手に入れたら使う時を心待ちにするものだ。

それを改めて感じた。

 

先週傘を盗まれたので、一昨日ビニール傘(500円)をドラッグストアで買ってきた。

そして、今日は雨だった。普段は自転車で行動するため、雨は嫌なものだ。しかし、今日は雨が降ったのが少し嬉しかった。新しい傘を使えるから。

誰しも、ビニール傘ごときだろと思うであろう。自分でもそう思うほどなのだから。しかし、たかがビニール傘、されどビニール傘。

 

新しいビニール傘を買ったときは、雨が降るのが楽しみになるだろう。

問題の根源

状況 

県道の歩道を歩く二人の男女。交差点に差しかかかる直前で歩行者信号は赤になった。勿論の如く女は歩みを止めた。しかし、男は歩みを止めない。女は戸惑いながらも、男についていく。

「赤信号だよ?」

「あ?信号待ってるなんて、時間の無駄じゃん」

 

今日は、その二人の初公判である。

裁判

(法廷には、裁判官、検察官、男、女、警備員)

(傍聴席には、傍聴者A、傍聴者B、傍聴者C、傍聴者D)

裁判官

「本日は若い男女二人の初公判である。状況は・・・、先に述べたようでありますな。えー・・・、まずは、訴え側の主張を聴くとしようか。」

検察官

「赤信号を渡ってはいけない。これは、世の中の常識であります。人々が安全に快適に暮らせるようにルールというものがある。そのルールを破るというのは、極悪非道な行為であり、人道を外している。よって、この二人を刑に処するべきであると主張します。」

裁判官

「というのが、訴え側の主張のようでありますな。まあ、その通りな気もするが、若いお二人さんにも主張というものがあるようですから、お二人の主張を聴くとしましょうか。」

「裁判ってなに?赤信号を渡るのが悪いわけ?だって、車来てないんだよ。渡れるのに渡らないなんて無駄じゃん。時間の無駄だよ。いや、人生の無駄だね。そうだろ?」

「あっ、うん。・・・。いやでも、私は、赤信号になったから止まろうとしたのに、あなたが勝手に進んじゃうから、ついつい私も」

「はっ?なに?その、俺が悪いみたいな言い方。お前だって渡っただろ?この場に及んで、自分だけ助かろうとしてんの?」

女(慌てて)

「いやいや、そういうんじゃないよ。」

裁判官

「これこれ、静粛に静粛に。お二人さんの主張は以上かな」

「あ?主張もなにも、たかが、赤信号渡っただけのことだろ」

裁判官

「まあ、そう言われると、その程度の事のようにも思われるな。まあしかし、裁判というわけで、白黒つけんといかん。とはいっても、まだ白か黒か判決を下すには決めかねるな。こういうのは一度、判決を下すと、覆すのがむつかしい。というわけで、もう少し議論をした方がよさそうだな。証人を呼ぶとしようか。証人よ入りなされ。」

哲学者(入廷)

「この裁判は一見、単純そうな問題を扱ってると思われますが、実は非常に複雑で議論の余地がある。というのも、男の主張は『渡れる赤信号を待つというのは時間の無駄である』というものであった。この『時間の無駄』。この裁判の論点はここにあると思われる。まず、無駄というのはですね、『意味を見いだせない』ということだ。だが、『意味』というものは、物事に存在意義を与えるためにある。そうなるとだ、『意味を見いだせない』というのは、男の主観にとっては、その物事は存在意義を持ちえないということになる。存在意義を持ちえないのに、存在するだって?こんなことはありえない。矛盾である。そうなると我々の仕事は、真理を突き止め宇宙の一貫性を把握するというところにあるのだから、この矛盾を解かなくてはならない。そのためには、まず『存在』についての議論を始めなくてはならない。しかしですな、この『存在』、二十世紀最高の哲学者ハイデガー氏が既に『存在と時間』の中で考えておる。そこから引用すると」

傍聴席

「がやがや、がやがや(なんかめんどくさそうだぞ)」

哲学者

「騒がしい!騒がしい!何の騒ぎだ!私の主張の邪魔しようというのか!貴方達には、観念論から説明するのがよろしいようだな!観念論とは、我々の精神存在だけを」

裁判官

「証人を下げよ」

哲学者

「なんだ、お前達は!お前達も私の邪魔をするのか!えーい、全く誰一人分かっておらん!人間、精神の働きによって・・・」

(哲学者、警備員に引きずられながら退廷)

裁判官

「あの者は、裁判所と大学を勘違いしているようじゃな。まあ、いい。少しは議論も熟した。次の者を呼ぶとしよう。次の者入れ。」

人工知能学者(入廷)

 「私は『赤信号を待つ』ことが無駄というならば、赤信号をなくしてしまえばいいと思うのです。いえいえ、物理的な意味ではなくてですね、信号に知能を持たせて、車が来たら赤に、来ていなかったら青に、と時間で分けるのではなく、その状況に合わせて変化させればいいと思うのです。そうすれば、『無駄な時間』というのが少なくなりますね。」

裁判官

「なるほど。それは面白いですね。うーん。それはいい。それはすぐに実現可能ですかな?」

人工知能学者

「実現ですか。実現するためには、現在がどのようになっているかという空間認識、また、各々の信号の動きを見てこの後の状況を推論するということが必要ですね。それには機械学習、最近の流行りですとディープラーニングなどによる実装が考えられます。それにしても、我々としても普段の研究というのが世間から必要とされ、理論から実用へと羽ばたいていくのは、まるで我が子が社会へ羽ばたいていくように嬉しいものです。子どもを送り出すときの、親の心情といったら嬉しさの反面、心配なものです。そうなると、親の方でもできる限りのことはしてあげたい。それは自分の研究でも同じ。とすれば、まだやることは山のようにある!こんなところでぐずぐずしてられん、研究室に戻らなければ!」

人工知能学者、退廷)

裁判官

「おい。あれっ・・・。行ってしまわれた。どうも、証人の方々は退廷が慌ただしいようで・・・。まあ、いい。他にも証人がいるようなので、続けましょうか。次に者、入りなさい。」

学生(入廷)

「あの、実は僕あのとき反対側で信号を待っていたので、そのやり取りを見ていたのです。僕は率直にこの人嫌だなと思いました。そんな時間の無駄なんて。それに、赤信号を待つ時間より、その行為で周りの人にこの人嫌だなと思われる方が無駄だと思いませんか?」

男(身を乗り出して)

「ああ?文句あるのか?」

裁判官

「これ被告よ静粛に。まあ、証人の意見も中々面白いものだ。しかしなんというか、若い頃の自意識過剰な見方が含まれているような気もするでありますな。 他人からどうこう思われて云々と。あなたこそ、この意見を述べることによって、周りから色々なことを思われるのですよ。いかん、いかん、説教じみてしまった。別にあなたを説教する気は全くないのだが、あなたとしてはどうなのですか?」

学生(顔を赤くして)

「・・・。あっ。いやっ。その・・・。・・・。僕は、失礼させていただきま・・・す。」

(学生、早歩きで退廷)

裁判官

「ありゃ。またも、出て行かれた。別に責める気もなく、ただ問うてみただけなのじゃがな。まあいい。次の者、入りなされ。」

愛セラピスト(入廷)

「この男女が赤信号を渡ったという行為ではなくて、その前の彼女は渡るのを拒んだのに、彼は渡ろうとした。この違いが問題だと思いますわ。互いの倫理観が合わない二人がうまくいくなんて私の経験から言わせてもらえば、無理だと思いますよ。裁判の間の二人のやり取りをみても、彼女が無理をしているように見えるし。こんな男よくないわ。さっさと別れた方がいいわよ、絶対。」

「なんだてめぇ!二人の関係に口出しするんじゃねえよ!なあそうだろ?」

「あっ、うん。いやでも・・・。あの人が言ってるのは正しいんじゃないかと思うな・・・。正直、私そろそろ限界だと思ってた・・・。だって・・・。だって、私ずっと我慢してきたのよ!なのに、あなたといったら・・・。もう無理!別れましょ!」

(女、怒って退廷)

検察官

「被告が裁判官から出て行ってたぞ!これは法律違反だ!追いかけろ!」

(検察官、女を追いかけ退廷)

「おい・・・。なんだよ急に怒っちゃって・・・。そんな、オレが悪いみたいな・・・。」

恋愛セラピスト

「あなたが悪いに決まってるでしょ!彼女にばかり我慢させて!彼女が言いたい事を抑えていたのも分からなかったの?あなたね、世の中自分中心で回っているのではないのよ!!かわいそうな彼女。きっと、心はずたずただわ。ケアしてあげないと!」

(恋愛セラピスト、退廷)

裁判官

「おいおい、みんな。・・・。行かれてしまったな。」

「いや、オレが悪い・・・?あれだけ尽くしてきたのに・・・?でも、その尽くし方が間違っていたのか・・・?いや、でもオレだって・・・?なんだよ・・・。そんな。別にオレだって・・・・・・・・・・・・。あっ、あぁーーーーーーーーー!!!!くそぉーーーーーーーー!!!」

(男、髪をむしりながら狂って退廷)

裁判官

「落ち着きなされ・・・。とはいっても、またも行ってしまわれた。残りは・・・。私一人になってしまわれたな。となると、この裁判も終わらせる時がきたというわけだな。今まで、様々な意見を述べってもらったが、どれも正論のようで、どれも邪論のようであったな。とはいっても、これは裁判だ。白黒つけなくてはならない。よしっ!いざ、判決を言い渡すとしよう!被告!・・・。うっ。うっ。あぁ。心臓が・・・。苦しい・・・。」

(裁判官、胸を押さえながら死亡)

傍聴者A

「おい、倒れたぞ!救急車、救急車!」

(傍聴者A、飛び出して退廷)

傍聴者B

「なんだよ、なんだよ。判決言い渡す前に倒れたらダメだろ。白か黒かはっきりさせてくれよ。全く、どいつもこいつも。」

(傍聴者B、怒って退廷)

傍聴者C

「気になるところだったなー。まあ、いいや。腹も減ってきたし。なあ、ラーメンでも食いに行かないか?」

傍聴者D

「おお、いいな。でも、ちなみにお前ならどっちにした?」

傍聴者C

「ん?どっちって・・・。お前こそどうした?」

傍聴者D

「いや、俺は・・・。白黒つけにくいよな。もう一回状況を思い出してみろよ。争うべきでもあった気もするし、そうでない気もするし・・・。」

傍聴者D

「まあ、でもそうだよな・・・。この裁判・・・。どこが問題だったのかな?」

(傍聴者C・傍聴者D、退廷)