他人の人生、自分の人生

「あのような人生を送ってみたいものだ」

時として人間はそのようなことを言う。現在の自分の人生に納得していない人ならまだしも、不満がない(満足しているわけではない)人でも言ってみる。

これ、なんだろうなと思う。

納得していない人が言う分には理解出来る。しかし、不満がない人が言う場合は気をつけなければならない。

 

憧れる人生があるということは、現在の自分の人生より望ましい・優れた人生があるということである。より納得いく人生を送るためには、憧れの人生を自分のものにしなくてはならない。そこで問題は生まれる。仮に、憧れの人生を手に入れようとする。しかし、時間・空間的に見ても絶対にそのような人生を手に入れることはできない。では、諦めよう。しかし、そうすると現在より優れた人生を知りながらも、それを手に入れることができないわけで、絶対的に最高な人生を生きることができない。これが問題なのだ。このことを暗黙的に気づきながらも表面に言語化されて現れないため、扱われることが少ない。

 

ではそのような時、人間はどうするか。一つとしては「逃げ」であろう。その問題に気づいていないフリをするのである。もう一つの方法としては、自分に出来る限りの中で、憧れの人生を超える憧れの人生を生きることである。

僕はF氏にはなれないのだ。いや、そもそも自分はF氏でないのだ。だったら、F氏になる必要なんぞない。あの人生は参考例なのだ。本当に自分が歩みたい人生が何なのかを知るための、比較例に過ぎないのだ。そうやって、色々なものと比較していく中で、真実を見つけていくのだ。

しかし時として、参考例だということを忘れ、絶対例だと思い込む時がある。そうするとうまく回らない。だって、それには届かないのだから。そして、そもそも届く必要がないのだから。

F氏の人生は良さそうなものに思える。けれども、これまでの自分の人生を振り返ってみても、別にF氏の人生に劣るものでもない素晴らしいものである。そして自分には、もっと素晴らしい人生を創造するための未来があるのだ。 これほど偉大は天然資源はない。しかし、これはあくまで資源だ。資源は加工しなくてはものにならない。だから、加工しなくてはならない。憧れを自らの手で作り上げるのだ。