情報パラダイム

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 最近のニュースで特にこの事件に興味がある。というのも、このニュースを見た時に次のようなことを思ったからである。

 

「完全に科学がパラダイムになったのだな」

 

 ワイドショーのコメンテーターは、「インスリンを与えていれば大丈夫なのに、それを止めさせたというのはおかしい」というようなことを言っていた。しかし、思った。この人は、インスリンがどの程度糖尿病に効くのか科学的に分かっているのかなと。

 

 そして、両親は「わらにもすがる思いだった」と言い、医者の助言を無視して、祈祷師の言いなりになったとあるが、これは15世紀以前では当然の光景だったのではないかと思う。15世紀以前なら、科学者が「その子にインスリンを打ちなさい」なぞと言えば、「いつも顕微鏡ばかり眺めているお前なんかを信じられるか。あの方はキリストの子孫なんだぞ」なぞと言い、祈祷師にすがっていたに違いない。

 

 もし、これが100年後ならば、両親は「Pepperちゃん、どうしたらいいの?」なぞと言うだろう。そして、Pepperは国際医療AIに問い合わせをする。すると、国際医療AIは過去の治療データベースから糖尿病の良い治療方法を検討する。その結果、インスリンを打てば良いと判断し、Pepperに情報を送る。そして、Pepperは「病院でインスリンを打ちましょう」と答えるだろう。

 

 しかし、国際医療AIが送った情報がクラッカーに傍受され、その内容が書き換えられたらPepperは言うだろう。「私がさすれば治ります」と。

 

 

 デカルト以降、科学は客観性を持っていて正しいというようになり、科学がパラダイムとなったが、その科学の妥当性について本当に知りえるのは、その分野の研究者のみであろう。今回の場合、医者は本当にどういう原理でインスリンが糖尿病に効くか分かっているが、それ以外の人間にはそんなこと分かるまい。結局は、研究者が研究し、客観性をもっても正しことを論文にまとめ、それをその研究者以外の人間が見て、間違いがなければ、それは「真理」となり、正当性をもって一般に広まっていく。そのようにして、科学のパラダイムが出来上がる。

 

 そうなると人類は、確かに誰かはその真理を突き詰めたかもしれないが、自分はその結果だけしかしらず、その過程は分からないというようになる。そう考えると、「科学パラダイム」には自分の信念はほとんど含まれないということになる。「科学パラダイム」以前は信じるものが真理であったから、自分の信念で世界が構成されていたことになる。

 

 しかし、これを批判する気はない。「科学パラダイム」になって、間違いなく人類は飛躍的に成長した。しかし、一つ思う事がある。現在はコンピュータがあふれ、現実におけるサイバー・スペースの割合が増してきた。そのようなとき、「科学パラダイム」のままでいいのかと。これからは、情報量がますます増え、情報のもつ意味が重くなっていくだろう。そうなると、「情報」がパラダイムとなる世界ができるであろう。しかし、「情報」というものは目には見えない。科学的にも証明できないものである。

 

 人類は15世紀以前は宗教、それ以降は科学にすがってきた。そして現在、我々は情報にすがって生きている部分は大きい。そして、これから益々、情報にすがっていくだろう。しかし、宗教・科学は時間をかけてより確実なものになるように歩んできたが、情報は違う。出来上がるのも、複製も改変も即座にできてしまう。情報は「確実」にすがるというのが難しいものである。そのようなとき、我々は情報とどのように関わり、どのようにすがるべきか。考えなくてはいけない。