あのとき心に浮かんだもの

いつものことだが

電車は満員だった。

そして

いつものことだが

若者と娘が腰をおろし

としよりが立っていた。

うつむいていた娘が立って

としよりに席をゆずった。

そそくさととしよりが坐った。

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に

横あいから押されてきた。

娘はうつむいた。

しかし

又立って

席を

そのとしよりにゆずった。

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。

二度あることは と言う通り

別のとしよりが娘の前に

押し出された。

可哀想に。

娘はうつむいて

そして今度は席を立たなかった。

次の駅も

次の駅も

下唇をギュッと噛んで

身体をこわばらせて---。

僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて

娘はどこまで行ったろう。

やさしい心の持主は

いつでもどこでも

われにもあらず受難者となる。

何故って

やさしい心の持主は

他人のつらさを自分のつらさのように

感じるから。

やさしい心に責められながら

娘はどこまでゆけるだろう。

下唇を噛んで

つらい気持ちで

美しい夕焼けも見ないで。

吉野 弘
詩集<幻・方法>所収

「現代詩文庫」思潮社

 

 

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先生の話は聞かず、板書だけをただ書き写し、興味に任せて他の作品を読む。中高時代の国語の時間はほとんどこうやって過ごした。しかし、そういった時に限って、数年経っても記憶に残るような物に出会う。吉野弘の「夕焼け」はそのうちの一つである。

おそらく、中学三年のとき。読み終わって「これ、すごい」と感慨深いものを感じたのを覚えている。うまく、言語化できないものが心に浮かんだ。しかし、多感な中学生。そんなことはすぐに心の奥に閉まって、次のものに興味が移っていった。

突然、昨日布団の中で、この詩と一枚の写真が繋がった。その写真は一年半前に、大阪駅の最上階で撮ったものだ。このタイミングでなぜいきなり繋がったのかは分からない。そして、一つ思った。「ああ、やっと見つかった」と。

思えば、小さい頃から詩や物語を読むと、その作品の風景を思い浮かべるような子であった。それは、「こんな感じかな」とかではなく、いきなり心に浮かぶものだった。自分が今まで見たことがあるものなのか、ないものかさえも分からないような。わりと、遠くの知らない地に思いを馳せることが多かったが、それとは違うものが作品を読んだときに感じていた。

この作品を読んだときに、浮かんだ風景はトラス橋を左方向へ走る電車と、それを照らす赤い夕陽と川で反射されたそれ。少し離れたところからの視点だった。そう、この写真だ。視点は少し違うが、橋と夕陽はぴったりだ。別に、探していたわけでもないし、もっと言えばこの作品自体忘れていた。そして、この写真を撮ったときは何も思い返さなかった。だが、突然―。浮かんだままの風景は他にもある。それらも別に探しているわけではない。でも、この写真が詩とリンクしたときに思ったのは「ああ、やっと見つかった」このことだった。

当時、言語化できなかったものは、作品全体の儚さと少女に対する思いだった気がする。なんか、少女の気持ちが分かるような気がした。何とも言えないやりきれなさ。もしかしたら、少し自分と似ているなとか思ったのもかもしれない。しかし、決定的に違うことが一つある。僕は美しい夕焼けを見ていたのだ。