或る街と少女

火曜日の午後、寅の刻。普段の行動範囲を超えたところを散歩していた。同じ街とはいえども、普段と来ないところに来ると、非日常感が味わえたりする。とはいっても、初めて通る道ではなく、ある程度は自分がどこを歩いているか想像がついていた。「あれ?こんなところにあったっけ・・・?」一つのトンネルが目に入った。これだけなら、ただの発見である。しかし、そのトンネルは僕を誘っているように構えていた。「そっちは帰路とは違う方向なんだよな」と思ったが、気づいたときには、脚はそちらの方向へ踏み出していた。

先は長く、出口は見えない。「大丈夫かなー?」その思いはすぐに吹き飛んだ。トンネルを成すコンクリートの壁には何かキラキラしたものが埋め込まれていた。幻想的なものであった。「うん、大丈夫!」そう思い直し、歩みを進めた。そのキラキラしたものは見渡す限り、原色のみであった。「何色あるのかな?」赤、青、緑・・・。右手の指を折りたたんでいった。そして、左手に移り、中指を折りたたみ終わったとき、もうすぐ出口というところまで来ていた。「こういうのは、数え始めると他のことには意識がいかなくなるんだよな」と自分の癖を再認識すると同時に「出口を抜ければ素晴らしい景色があるに違いない!」と心が高まっているのが分かった。

「やっぱり!」予感は的中した。「なんてきれいな街だろう・・・」。一瞬にしてそこから見える街並みに惚れてしまった。一番手前には分からない英単語が書かれた、錆びついた黄色の看板を掲げているバーらしき店。駐車場には、スクラップと間違われても仕方ないような黒の80年代のアメ車が一台。その奥には、この街のシンボルであろうと思われる、大きな風車が1つゆっくりと回っている。きっと、この風車がこの街の空気の流れを作っているに違いない。そう思うと、僕の歩くスピードも次第にゆっくりになっていった。「こんな街がトンネルの向こうにあったとは・・・」それまで知らなかったことに少しショックを感じていた。

「なんだ、あれは・・・」。近寄ってみると銅像が建っていた。「Philosopher Mr.Zowa」。髭をふさふさに生やした、鋭い目つきの男。道端で「この人の職業は?」と尋ねれば10人中8人は哲学者と答えるであろう、あの姿。そして2人は論理学者と答えるであろう。「でも、なんで哲学者が銅像に・・・?」。哲学者の銅像が建っているなんて聞いたことがない。少し立ち止まって、その理由を考えてみることにした。「銅像に建っているからには何らかの偉業をなしているに違いない。でも、その偉業を一般住民が偉大だと認識しない限り、街中に銅像が建てられるはずがない。一般住民が認識できる、哲学者の偉業とは?」思考巡らしていると、ふと甘い香りが鼻に入り込んできた。思わず、目を閉じてしまうほどであった。「なんだろうこの香りは・・・」。目を開けると15m程先に美しい一人の少女がこちらに歩いてくるのが認識できた。「ああ、なんてきれいなんだろう」。哲学者についての思考なんて頭から追いやって、僕の目は釘付けになってしまった。その間にも、少女は一歩一歩こちらに近づいてくる。この気持ちをどうしたら良いのか分からず、とっさに僕は顔を伏せてしまった。「どうしよう、どうしよう、どうしたらのよいのか」。顔を伏せている姿も滑稽だなと思い顔を上げると、ちょうど、彼女が僕の左側を通り過ぎた。「ふふ」。一瞬、彼女が微笑んでいるように見えた。「うん?」疑問に思い僕はゆっくりと後ろを振り返えった。「もしかしたら、振り返って、微笑んでくれるかもしれない・・・」。そうしたら自分はどう反応するかなんて考えず、僕はしばらく眺めていた。しかし、この願望は現実のものとはならず、少女は一度も振り返ることもせず、どんどん遠くへ歩んでいった。「ああ、顔など伏せなければ良かった・・・」と未練を引きずり、後ろを眺めている姿はなお滑稽に思えたので、僕は仕方なく進行方向通り歩みを進めることにした。「もしかして!」少しの望みと共にもう一度振り返ってみたものの、すでに少女の姿は消えていた。「おかしいな、この間隔なら今頃、風車の前を通り過ぎるくらいなはずなんだけれどな・・・。うん、やっぱり歩こう」。心を決め、僕は進行方向に歩み始めた。

そこからは、特にこれといったものはなく、ただただきれいな構造をした家々が立ち並ぶ、ゆっくりとカーブした一本道を僕は歩き続けた。すると、その先は左右二方向に分岐しているのが分かった。僕は、何も考えず、左に曲がることに決めた。「そこを曲がればさらに見たこともないものがあるに違いない」。トンネルに入る前とは反対に僕はその先の見えない風景に心を弾ませていた。あと、10mで―。僕の心の高まりは最高潮に達していた。そしてついに左へ!「・・・」。そこには見慣れた風景が存在した。「えっ・・・ここ?」一瞬、僕の頭の中はニューロンどうしの電気信号が繋がらなかった。「トンネルに入る前の場所と現在立っている場所の間にこんなに素敵な街があったなんて・・・。それにしても、この見慣れた現実世界はむごすぎる!」そう思い、振り返り来た道を戻ろうとしたが、その瞬間に頭を遮る先ほどの少女。振り返って、もう一度も見ることができないことほど切ないものはない。「ここで、振り返って、あの街が存在していなかったら・・・。うん、やっぱり歩こう」。僕はこの街の風景を心の中の世界の一角に仕舞い込み歩き始めた。そして、もう一度も振り返ることはなかった。