「モモ」 ミヒャエル・エンデ

先日、ミヒャエル・エンデの「モモ」を読み終えた。当初は感想を書き起こそうとは思っていなかったが、やはり言葉にしていかなくてはという気持ちが強くなったので、ここに記すことにした。

 

「モモ」を読もうと思ったのは、昨夏にジブリ宮崎駿にはまったことに依る。宮崎駿が児童文学を多く読んでいることを知り、僕は幼少期に児童文学と呼べるような作品を多くは読んでいなかったため、読んでみようと思ったわけである。それで、行き着いたのが「モモ」である。

エンデ全集〈3〉モモ

 

「モモ」では、現代社会(出版されたのは1973年だが現在にも通ずる)の工業化による文明の進化とそれに伴い、人間から奪われるもの―時間―について警告を鳴らしている。なぜ、「時間」か。本来、技術の進歩とは人間がやる作業を機械にさせることにより、時間の短縮化、機械ではできない人間しかできないもの何なのか?を問わせる存在だと思っている。すなわち、機械化されていたものに充てられていた時間を人間性に捧げることだと思う。しかし、現代社会はどうであろうか?時間の短縮化どころか仕事に注ぐ時間は増えている。また、インターネットにより、人間同士のコミュニケーションにかかる時間は明らかに早くなった。そして、その時間をどうしているか?スマホ・ネットサーフィン・ゲームetc。人間性に捧げる時間が増えたようにはとても思えない。これらは物理的「時間」についての問題である。

そして、エンデは「時間」に関して大切なこと警告している。

 光を見るためには目があり、音を聞くためには耳がるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、なにも感じとれない心を持った人がいるのだ。

 時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。

なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。

そう。「時間」は心に存在する。「時間」を感じ取れないのは、人間にしかない心をなくすこと。人間性を失うことである。エンデはこのことについて警告の鐘を鳴らしているのだ。エンデの時間と心の捉え方は独特なものである。しかし、確かに人間が何を感じるとき、そこには時間が流れている。美しさ・優しさ・愛etc。今こうしている間にも未来は現在になり、現在は過去になる。そこに、尊いものがあり、人間性がある。エンデはこのことについて的確に捉えていたのだと思う。

そして灰色の男たちは言う。

この世界を人間のすむ余地もないようにしてしまったのは、人間じしんじゃないか。こんどはわれわれがこの世界を支配する!

そうです。工業化により、生まれてきた灰色の男たち。彼らの言うことは正しいのです。人間は自分たちで生み出したものに支配されるようになっている。灰色の男たちは人間を支配し、振り回している道具たち。人間は改めて、自分たちが生み出した道具との距離・関係性について考えなければならないのです。

そして、あとがきにて、エンデにこの話をしてくれた旅行者は言っています。

 「わたしはいまの話を」「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

 「モモ」が出版されてからだいぶ経った現在もなお、読み続けられている理由はここにあると思います。

 

河合隼雄さんの解説を読んで、エンデの父が画家であることを知った。そして、エンデ親子の現実を捉え表現する力はすごいのだなと思った。もう少しミヒャエルの本や父エドガーの画集を見て、彼らの現実との向き合い方について考えてみたい。