僕たちは

あまりに重要なことを知らない気がする。そして何が重要なことなのかも。そして重要でないことを知りすぎていたかもしれない。

本当に僕たちが大切にしなければいないことについてじっくり考える必要があると思う。まずは、ある事柄についてその本質を理解することだと思う。案外、分かっているようでその表面的なことにしか触れていないことは多いと思う、それに気づかず。本質は何なのか?それが変化すれば、それ全体に影響するパラメータは何なのか?これはあらゆる物事について腰を据えて考えるべきだと思う。そこを突けるようになると、だいぶ物の見方・捉え方には変化が生じる。

次は、物事の優先度についてだ。何をしなくてはいけなくて、何をしなくて良いか。もちろん、しなくてだけではなくしたいでも良い。これは間違えると時間の経過的に取り返しのつかないことになるであろう。それに気づいたときに、絶対に取り戻せなくなるようでは、あまりに損害が大きすぎる。だから、今、大切なことについて優先度を考える必要がある。

恋や愛などのあまりにも複雑過ぎる形ないものに対しても、向き合うことが必要だと思う。これを欠いたら、人間としての魅力が「ない」に限りなく近づいて行きそうな気がする。反対に、向き合っている人にはあまりにも尊すぎる、人間臭さが備わっている気がする。

これらは重要だと思うことの一部に過ぎず、時の変化、環境の変化、心境の変化によって、変わりえることであって、永久的なものではない。だから、時より、腰を据えてじっくり考える必要があると思う。また、「自分にとっての―」を基準に測らなければいけないのは、言うまでもない。

そして一番の問題は、これらのことについて、本当に重要なのか知らないことだと思う。

過去は偉大なものである。

この成人の日を含む3連休は、成人を迎えた者達にとって、現在から過去へ線が結ばれるものであったに違いない。久しぶりに会う友を前に、自分・相手が成長していようとも関わり方は過去と同じものであった。現在のお互いを認識しつつも、過去の記憶を辿り、昔と同じように―。

しかし、真逆のことも同時に起きていた。昔はほとんど関わらなかったのに、同窓会の場に際して、なんかいい感じの関係になると。別に同窓会は過去のものでなく、そこから、これからを創っていく存在に思えた。そして、今までよりもこの人と関わっていきたいと思える人が増えた。それは、高校よりも中学の人達の方が。小さいときから知っている方が、すごい居心地が良い。なんか「過去」というものに、重み付けが存在して、中学が一番重いように感じた。

結局その日は朝まで遊んで、始発の次の電車に乗って帰った。そのころ、ちょうど夜が明けるときであった。だんだん、明るくなっていく空。どうせ、また今日の終わりにはまた、日が沈む。それは明日も昨日も同じ。5年間なんて、5年間分、日が昇って、火が沈むのを繰り返しただけである。しかし、それによって、5年前のメンバーが最高だなんて。過去は偉大なものではないか。となると、日が昇って、火が沈むことによって、過去の重みづけは大きくなっていくのではないか。だとしたら、今日という一日は未来のある日から見た、重み付けの開始である。だとしたら、どう考えたって、重くしたい。だって、未来のある日に過去が偉大だって思えるから。

音楽と風景

音楽には風景がある。これは半年くらい前から思っていることだ。ある曲を聴くと、その曲が持っている情景、はたまた過去に自分が見てきた風景とリンクする瞬間がある。今まで見たこともないその曲だけが持っている風景を見せてくれる、そんな曲も好きなものだ。しかし、過去に自分が見てきた風景、言ってしまえば過去の自分を思い返させてくれる曲も貴重だったりする。

 というのも、なんかふと過去に自分が聴いていた音楽が聴きたくなって聴いている。中学生になってから音楽というものを聴き始めた自分であるが、当時の曲を聴くと自然と歌詞を口ずさんでいる。聴き込んだ証であろう。しかし、同時にその曲を聴いていたときの(瞬間というよりは時期)友達との会話、学校の風景、考えていたこと、それらも湧き出てくる。当時は自分たちが思春期だとか言われてもそんな実感なんてなかった。しかし、この曲たちと同時に奏でられる自分たちを振り返ると、何とも言い難い雰囲気の中で過ごしていたのだななんて思ったりする。狭い世界の規律、友達の顔色、怖い先輩達。果てしてそれがどれほどの意味を持つのか、現時点ならそんなことが言えるが、当時の自分たちにとってはそれが世界だった。しかし、そんな中でも共にバカなことをして、笑って、笑って、笑い合う、友人達とのやり取りは、鮮明なものばかりではないが、良い記憶として残っている。

当時聞いていた音楽がその記憶を突くから音楽は過去を思い出させてくれるのだと思うが、それじゃつまらないから、音楽は自分の過去を奏でるなんて表現を使いたい。そして、ふと聴きたくなって、聴いているのは本当なのだが、もう一つ理由があったりする。次の日曜日が成人式で中学生のクラスで集まるのだ。それを前に、あのとき聴いていた音楽を聴いてみたら面白そうだな、なんて感じで聴いている。自分は音楽をパソコンで聴くのだが、そのフォルダの更新日時が2008年とか記録されていて、正直古さを感じている。でも、なんだろうそれ以上に中学生のときが昔に感じられる。それだけ濃密な時間だったのであろう。そんな時期を過ごした友人達が、どんな姿になっているか、懐かしさよりも気になっている。そして友人達が反対に自分を見てどんな風に思ってくれるか。2年前から、人生について悩み始めて、それに伴い自分の考えも180度変わり、自分で自分の変化を自覚できるくらい変わった自分だが、それを見て彼らはなんて思うか。別にどう思われようと気にしないし、正直変わりすぎてなんか違うとか思われるかもしれない。でも、あの当時、共に笑いあった仲間なら、「お前、成長したな」なんて言ってくれるに違いない。それほど自分は彼らを信用しているし、反対に自分も「お前、成長したな。うれしいよ」なんて言えれば良い。そして、また一歩成長した形でお互いを認識し合えるようになれば、同じ曲を聴き返したとき、違った風景が見えるかもしれないし、やっぱりあの時の風景は特別で塗り替えられることはないかもしれない。おそらく後者の方になるのではないかと思う。だからこそ、時には過去に聴いていた曲を聴いたりして、その貴重な風景を感じたい。