問題の根源

状況 

県道の歩道を歩く二人の男女。交差点に差しかかかる直前で歩行者信号は赤になった。勿論の如く女は歩みを止めた。しかし、男は歩みを止めない。女は戸惑いながらも、男についていく。

「赤信号だよ?」

「あ?信号待ってるなんて、時間の無駄じゃん」

 

今日は、その二人の初公判である。

裁判

(法廷には、裁判官、検察官、男、女、警備員)

(傍聴席には、傍聴者A、傍聴者B、傍聴者C、傍聴者D)

裁判官

「本日は若い男女二人の初公判である。状況は・・・、先に述べたようでありますな。えー・・・、まずは、訴え側の主張を聴くとしようか。」

検察官

「赤信号を渡ってはいけない。これは、世の中の常識であります。人々が安全に快適に暮らせるようにルールというものがある。そのルールを破るというのは、極悪非道な行為であり、人道を外している。よって、この二人を刑に処するべきであると主張します。」

裁判官

「というのが、訴え側の主張のようでありますな。まあ、その通りな気もするが、若いお二人さんにも主張というものがあるようですから、お二人の主張を聴くとしましょうか。」

「裁判ってなに?赤信号を渡るのが悪いわけ?だって、車来てないんだよ。渡れるのに渡らないなんて無駄じゃん。時間の無駄だよ。いや、人生の無駄だね。そうだろ?」

「あっ、うん。・・・。いやでも、私は、赤信号になったから止まろうとしたのに、あなたが勝手に進んじゃうから、ついつい私も」

「はっ?なに?その、俺が悪いみたいな言い方。お前だって渡っただろ?この場に及んで、自分だけ助かろうとしてんの?」

女(慌てて)

「いやいや、そういうんじゃないよ。」

裁判官

「これこれ、静粛に静粛に。お二人さんの主張は以上かな」

「あ?主張もなにも、たかが、赤信号渡っただけのことだろ」

裁判官

「まあ、そう言われると、その程度の事のようにも思われるな。まあしかし、裁判というわけで、白黒つけんといかん。とはいっても、まだ白か黒か判決を下すには決めかねるな。こういうのは一度、判決を下すと、覆すのがむつかしい。というわけで、もう少し議論をした方がよさそうだな。証人を呼ぶとしようか。証人よ入りなされ。」

哲学者(入廷)

「この裁判は一見、単純そうな問題を扱ってると思われますが、実は非常に複雑で議論の余地がある。というのも、男の主張は『渡れる赤信号を待つというのは時間の無駄である』というものであった。この『時間の無駄』。この裁判の論点はここにあると思われる。まず、無駄というのはですね、『意味を見いだせない』ということだ。だが、『意味』というものは、物事に存在意義を与えるためにある。そうなるとだ、『意味を見いだせない』というのは、男の主観にとっては、その物事は存在意義を持ちえないということになる。存在意義を持ちえないのに、存在するだって?こんなことはありえない。矛盾である。そうなると我々の仕事は、真理を突き止め宇宙の一貫性を把握するというところにあるのだから、この矛盾を解かなくてはならない。そのためには、まず『存在』についての議論を始めなくてはならない。しかしですな、この『存在』、二十世紀最高の哲学者ハイデガー氏が既に『存在と時間』の中で考えておる。そこから引用すると」

傍聴席

「がやがや、がやがや(なんかめんどくさそうだぞ)」

哲学者

「騒がしい!騒がしい!何の騒ぎだ!私の主張の邪魔しようというのか!貴方達には、観念論から説明するのがよろしいようだな!観念論とは、我々の精神存在だけを」

裁判官

「証人を下げよ」

哲学者

「なんだ、お前達は!お前達も私の邪魔をするのか!えーい、全く誰一人分かっておらん!人間、精神の働きによって・・・」

(哲学者、警備員に引きずられながら退廷)

裁判官

「あの者は、裁判所と大学を勘違いしているようじゃな。まあ、いい。少しは議論も熟した。次の者を呼ぶとしよう。次の者入れ。」

人工知能学者(入廷)

 「私は『赤信号を待つ』ことが無駄というならば、赤信号をなくしてしまえばいいと思うのです。いえいえ、物理的な意味ではなくてですね、信号に知能を持たせて、車が来たら赤に、来ていなかったら青に、と時間で分けるのではなく、その状況に合わせて変化させればいいと思うのです。そうすれば、『無駄な時間』というのが少なくなりますね。」

裁判官

「なるほど。それは面白いですね。うーん。それはいい。それはすぐに実現可能ですかな?」

人工知能学者

「実現ですか。実現するためには、現在がどのようになっているかという空間認識、また、各々の信号の動きを見てこの後の状況を推論するということが必要ですね。それには機械学習、最近の流行りですとディープラーニングなどによる実装が考えられます。それにしても、我々としても普段の研究というのが世間から必要とされ、理論から実用へと羽ばたいていくのは、まるで我が子が社会へ羽ばたいていくように嬉しいものです。子どもを送り出すときの、親の心情といったら嬉しさの反面、心配なものです。そうなると、親の方でもできる限りのことはしてあげたい。それは自分の研究でも同じ。とすれば、まだやることは山のようにある!こんなところでぐずぐずしてられん、研究室に戻らなければ!」

人工知能学者、退廷)

裁判官

「おい。あれっ・・・。行ってしまわれた。どうも、証人の方々は退廷が慌ただしいようで・・・。まあ、いい。他にも証人がいるようなので、続けましょうか。次に者、入りなさい。」

学生(入廷)

「あの、実は僕あのとき反対側で信号を待っていたので、そのやり取りを見ていたのです。僕は率直にこの人嫌だなと思いました。そんな時間の無駄なんて。それに、赤信号を待つ時間より、その行為で周りの人にこの人嫌だなと思われる方が無駄だと思いませんか?」

男(身を乗り出して)

「ああ?文句あるのか?」

裁判官

「これ被告よ静粛に。まあ、証人の意見も中々面白いものだ。しかしなんというか、若い頃の自意識過剰な見方が含まれているような気もするでありますな。 他人からどうこう思われて云々と。あなたこそ、この意見を述べることによって、周りから色々なことを思われるのですよ。いかん、いかん、説教じみてしまった。別にあなたを説教する気は全くないのだが、あなたとしてはどうなのですか?」

学生(顔を赤くして)

「・・・。あっ。いやっ。その・・・。・・・。僕は、失礼させていただきま・・・す。」

(学生、早歩きで退廷)

裁判官

「ありゃ。またも、出て行かれた。別に責める気もなく、ただ問うてみただけなのじゃがな。まあいい。次の者、入りなされ。」

愛セラピスト(入廷)

「この男女が赤信号を渡ったという行為ではなくて、その前の彼女は渡るのを拒んだのに、彼は渡ろうとした。この違いが問題だと思いますわ。互いの倫理観が合わない二人がうまくいくなんて私の経験から言わせてもらえば、無理だと思いますよ。裁判の間の二人のやり取りをみても、彼女が無理をしているように見えるし。こんな男よくないわ。さっさと別れた方がいいわよ、絶対。」

「なんだてめぇ!二人の関係に口出しするんじゃねえよ!なあそうだろ?」

「あっ、うん。いやでも・・・。あの人が言ってるのは正しいんじゃないかと思うな・・・。正直、私そろそろ限界だと思ってた・・・。だって・・・。だって、私ずっと我慢してきたのよ!なのに、あなたといったら・・・。もう無理!別れましょ!」

(女、怒って退廷)

検察官

「被告が裁判官から出て行ってたぞ!これは法律違反だ!追いかけろ!」

(検察官、女を追いかけ退廷)

「おい・・・。なんだよ急に怒っちゃって・・・。そんな、オレが悪いみたいな・・・。」

恋愛セラピスト

「あなたが悪いに決まってるでしょ!彼女にばかり我慢させて!彼女が言いたい事を抑えていたのも分からなかったの?あなたね、世の中自分中心で回っているのではないのよ!!かわいそうな彼女。きっと、心はずたずただわ。ケアしてあげないと!」

(恋愛セラピスト、退廷)

裁判官

「おいおい、みんな。・・・。行かれてしまったな。」

「いや、オレが悪い・・・?あれだけ尽くしてきたのに・・・?でも、その尽くし方が間違っていたのか・・・?いや、でもオレだって・・・?なんだよ・・・。そんな。別にオレだって・・・・・・・・・・・・。あっ、あぁーーーーーーーーー!!!!くそぉーーーーーーーー!!!」

(男、髪をむしりながら狂って退廷)

裁判官

「落ち着きなされ・・・。とはいっても、またも行ってしまわれた。残りは・・・。私一人になってしまわれたな。となると、この裁判も終わらせる時がきたというわけだな。今まで、様々な意見を述べってもらったが、どれも正論のようで、どれも邪論のようであったな。とはいっても、これは裁判だ。白黒つけなくてはならない。よしっ!いざ、判決を言い渡すとしよう!被告!・・・。うっ。うっ。あぁ。心臓が・・・。苦しい・・・。」

(裁判官、胸を押さえながら死亡)

傍聴者A

「おい、倒れたぞ!救急車、救急車!」

(傍聴者A、飛び出して退廷)

傍聴者B

「なんだよ、なんだよ。判決言い渡す前に倒れたらダメだろ。白か黒かはっきりさせてくれよ。全く、どいつもこいつも。」

(傍聴者B、怒って退廷)

傍聴者C

「気になるところだったなー。まあ、いいや。腹も減ってきたし。なあ、ラーメンでも食いに行かないか?」

傍聴者D

「おお、いいな。でも、ちなみにお前ならどっちにした?」

傍聴者C

「ん?どっちって・・・。お前こそどうした?」

傍聴者D

「いや、俺は・・・。白黒つけにくいよな。もう一回状況を思い出してみろよ。争うべきでもあった気もするし、そうでない気もするし・・・。」

傍聴者D

「まあ、でもそうだよな・・・。この裁判・・・。どこが問題だったのかな?」

(傍聴者C・傍聴者D、退廷)