あの時思ったことのいま

夜な夜な、ふらっと宛先もなく自転車に乗ってきた。夕方の変な時間に寝てしまい、起きたら頭が全然回らなかったから。時々あることである。そういうときは、何も考えず、感じるがままに小道をくねくね曲がる。夜の風と家庭から漏れてくる灯りを楽しみたいから。よくあることである。ふと、思い浮かんだ。「仮想関数endのオーバライドで改行すれば...」。これは、先日まで取り組んでいた課題のプログラムのことである。なぜ、突然思いついたかは分からない。

 

高校生くらいのときまで、数学者に憧れていた。数学が好きな少年には、自分が理解できない数式を操っている専門家はかっこよく映った。中学生のとき、何かの本で「数学者は寝ている間に計算する」というのを見た。「ああ、自分は数学者にはなれないな」自然と思った。高校生のとき、校長先生(元数学教師)が「学生時代は数学者になりたかった。しかし、自分は寝ている間に計算できないから諦めた」と何かの文集に書いていた。それを、読んで「中学生のときに思ったことは、校長先生も思っていて確かなことなんだな」と思った。

 

大学1年生の春休み、プログラミングを始めて1年弱が経っていたある夜にプログラミングコンテストの問題を解いていた。どうしても解けない問題があり、ずっと頭を悩ませていた。

「こう書いて。ビルドして。あっ、エラーだ。うーん...。ここが違う。こう書き直して...」。ソースコードを眺めて、書き直して、ビルドを繰り返していた。眠りの中だった。

起きた時、自分でも驚いた。眠りにつく直前まで書いていたプログラムが寝ている間にも頭に出てきたから。しかも、エラーまで出していたから。「数学者が寝ている間に計算するってこのことなんだな」自然と思った。

 

サイクリングのさなか、突然思いついたのは、驚くことでもなかった。頭が無意識なところで、考えていたのだと思う。でも、すこし嬉しかった。寝ている間や、サイクリングの間に突然思い浮かんできたから。その類のことは、自分には無理だと思っていたから。その行為が嬉しかったから別に、プログラムでなくても良かったのかもしれない。しかし、「良いプログラマになれるかもしれないな」自然と思った。

「モモ」 ミヒャエル・エンデ

先日、ミヒャエル・エンデの「モモ」を読み終えた。当初は感想を書き起こそうとは思っていなかったが、やはり言葉にしていかなくてはという気持ちが強くなったので、ここに記すことにした。

 

「モモ」を読もうと思ったのは、昨夏にジブリ宮崎駿にはまったことに依る。宮崎駿が児童文学を多く読んでいることを知り、僕は幼少期に児童文学と呼べるような作品を多くは読んでいなかったため、読んでみようと思ったわけである。それで、行き着いたのが「モモ」である。

エンデ全集〈3〉モモ

 

「モモ」では、現代社会(出版されたのは1973年だが現在にも通ずる)の工業化による文明の進化とそれに伴い、人間から奪われるもの―時間―について警告を鳴らしている。なぜ、「時間」か。本来、技術の進歩とは人間がやる作業を機械にさせることにより、時間の短縮化、機械ではできない人間しかできないもの何なのか?を問わせる存在だと思っている。すなわち、機械化されていたものに充てられていた時間を人間性に捧げることだと思う。しかし、現代社会はどうであろうか?時間の短縮化どころか仕事に注ぐ時間は増えている。また、インターネットにより、人間同士のコミュニケーションにかかる時間は明らかに早くなった。そして、その時間をどうしているか?スマホ・ネットサーフィン・ゲームetc。人間性に捧げる時間が増えたようにはとても思えない。これらは物理的「時間」についての問題である。

そして、エンデは「時間」に関して大切なこと警告している。

 光を見るためには目があり、音を聞くためには耳がるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。ちょうど虹の七色が目の見えない人にはないもおなじで、鳥の声が耳の聞こえない人にはないもおなじようにね。でもかなしいことに、心臓はちゃんと生きて鼓動しているのに、なにも感じとれない心を持った人がいるのだ。

 時間をはかるにはカレンダーや時計がありますが、はかってみたところであまり意味はありません。というのは、だれでも知っているとおり、その時間にどんなことがあったかによって、わずか一時間でも永遠の長さに感じられることもあれば、ほんの一瞬と思えることもあるからです。

なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。

そう。「時間」は心に存在する。「時間」を感じ取れないのは、人間にしかない心をなくすこと。人間性を失うことである。エンデはこのことについて警告の鐘を鳴らしているのだ。エンデの時間と心の捉え方は独特なものである。しかし、確かに人間が何を感じるとき、そこには時間が流れている。美しさ・優しさ・愛etc。今こうしている間にも未来は現在になり、現在は過去になる。そこに、尊いものがあり、人間性がある。エンデはこのことについて的確に捉えていたのだと思う。

そして灰色の男たちは言う。

この世界を人間のすむ余地もないようにしてしまったのは、人間じしんじゃないか。こんどはわれわれがこの世界を支配する!

そうです。工業化により、生まれてきた灰色の男たち。彼らの言うことは正しいのです。人間は自分たちで生み出したものに支配されるようになっている。灰色の男たちは人間を支配し、振り回している道具たち。人間は改めて、自分たちが生み出した道具との距離・関係性について考えなければならないのです。

そして、あとがきにて、エンデにこの話をしてくれた旅行者は言っています。

 「わたしはいまの話を」「過去に起こったことのように話しましたね。でもそれを将来起こることとしてお話ししてもよかったんですよ。わたしにとっては、どちらでもそう大きなちがいはありません。」

 「モモ」が出版されてからだいぶ経った現在もなお、読み続けられている理由はここにあると思います。

 

河合隼雄さんの解説を読んで、エンデの父が画家であることを知った。そして、エンデ親子の現実を捉え表現する力はすごいのだなと思った。もう少しミヒャエルの本や父エドガーの画集を見て、彼らの現実との向き合い方について考えてみたい。

あのとき心に浮かんだもの

いつものことだが

電車は満員だった。

そして

いつものことだが

若者と娘が腰をおろし

としよりが立っていた。

うつむいていた娘が立って

としよりに席をゆずった。

そそくさととしよりが坐った。

礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。

娘は坐った。

別のとしよりが娘の前に

横あいから押されてきた。

娘はうつむいた。

しかし

又立って

席を

そのとしよりにゆずった。

としよりは次の駅で礼を言って降りた。

娘は坐った。

二度あることは と言う通り

別のとしよりが娘の前に

押し出された。

可哀想に。

娘はうつむいて

そして今度は席を立たなかった。

次の駅も

次の駅も

下唇をギュッと噛んで

身体をこわばらせて---。

僕は電車を降りた。

固くなってうつむいて

娘はどこまで行ったろう。

やさしい心の持主は

いつでもどこでも

われにもあらず受難者となる。

何故って

やさしい心の持主は

他人のつらさを自分のつらさのように

感じるから。

やさしい心に責められながら

娘はどこまでゆけるだろう。

下唇を噛んで

つらい気持ちで

美しい夕焼けも見ないで。

吉野 弘
詩集<幻・方法>所収

「現代詩文庫」思潮社

 

 

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先生の話は聞かず、板書だけをただ書き写し、興味に任せて他の作品を読む。中高時代の国語の時間はほとんどこうやって過ごした。しかし、そういった時に限って、数年経っても記憶に残るような物に出会う。吉野弘の「夕焼け」はそのうちの一つである。

おそらく、中学三年のとき。読み終わって「これ、すごい」と感慨深いものを感じたのを覚えている。うまく、言語化できないものが心に浮かんだ。しかし、多感な中学生。そんなことはすぐに心の奥に閉まって、次のものに興味が移っていった。

突然、昨日布団の中で、この詩と一枚の写真が繋がった。その写真は一年半前に、大阪駅の最上階で撮ったものだ。このタイミングでなぜいきなり繋がったのかは分からない。そして、一つ思った。「ああ、やっと見つかった」と。

思えば、小さい頃から詩や物語を読むと、その作品の風景を思い浮かべるような子であった。それは、「こんな感じかな」とかではなく、いきなり心に浮かぶものだった。自分が今まで見たことがあるものなのか、ないものかさえも分からないような。わりと、遠くの知らない地に思いを馳せることが多かったが、それとは違うものが作品を読んだときに感じていた。

この作品を読んだときに、浮かんだ風景はトラス橋を左方向へ走る電車と、それを照らす赤い夕陽と川で反射されたそれ。少し離れたところからの視点だった。そう、この写真だ。視点は少し違うが、橋と夕陽はぴったりだ。別に、探していたわけでもないし、もっと言えばこの作品自体忘れていた。そして、この写真を撮ったときは何も思い返さなかった。だが、突然―。浮かんだままの風景は他にもある。それらも別に探しているわけではない。でも、この写真が詩とリンクしたときに思ったのは「ああ、やっと見つかった」このことだった。

当時、言語化できなかったものは、作品全体の儚さと少女に対する思いだった気がする。なんか、少女の気持ちが分かるような気がした。何とも言えないやりきれなさ。もしかしたら、少し自分と似ているなとか思ったのもかもしれない。しかし、決定的に違うことが一つある。僕は美しい夕焼けを見ていたのだ。

或る街と少女

火曜日の午後、寅の刻。普段の行動範囲を超えたところを散歩していた。同じ街とはいえども、普段と来ないところに来ると、非日常感が味わえたりする。とはいっても、初めて通る道ではなく、ある程度は自分がどこを歩いているか想像がついていた。「あれ?こんなところにあったっけ・・・?」一つのトンネルが目に入った。これだけなら、ただの発見である。しかし、そのトンネルは僕を誘っているように構えていた。「そっちは帰路とは違う方向なんだよな」と思ったが、気づいたときには、脚はそちらの方向へ踏み出していた。

先は長く、出口は見えない。「大丈夫かなー?」その思いはすぐに吹き飛んだ。トンネルを成すコンクリートの壁には何かキラキラしたものが埋め込まれていた。幻想的なものであった。「うん、大丈夫!」そう思い直し、歩みを進めた。そのキラキラしたものは見渡す限り、原色のみであった。「何色あるのかな?」赤、青、緑・・・。右手の指を折りたたんでいった。そして、左手に移り、中指を折りたたみ終わったとき、もうすぐ出口というところまで来ていた。「こういうのは、数え始めると他のことには意識がいかなくなるんだよな」と自分の癖を再認識すると同時に「出口を抜ければ素晴らしい景色があるに違いない!」と心が高まっているのが分かった。

「やっぱり!」予感は的中した。「なんてきれいな街だろう・・・」。一瞬にしてそこから見える街並みに惚れてしまった。一番手前には分からない英単語が書かれた、錆びついた黄色の看板を掲げているバーらしき店。駐車場には、スクラップと間違われても仕方ないような黒の80年代のアメ車が一台。その奥には、この街のシンボルであろうと思われる、大きな風車が1つゆっくりと回っている。きっと、この風車がこの街の空気の流れを作っているに違いない。そう思うと、僕の歩くスピードも次第にゆっくりになっていった。「こんな街がトンネルの向こうにあったとは・・・」それまで知らなかったことに少しショックを感じていた。

「なんだ、あれは・・・」。近寄ってみると銅像が建っていた。「Philosopher Mr.Zowa」。髭をふさふさに生やした、鋭い目つきの男。道端で「この人の職業は?」と尋ねれば10人中8人は哲学者と答えるであろう、あの姿。そして2人は論理学者と答えるであろう。「でも、なんで哲学者が銅像に・・・?」。哲学者の銅像が建っているなんて聞いたことがない。少し立ち止まって、その理由を考えてみることにした。「銅像に建っているからには何らかの偉業をなしているに違いない。でも、その偉業を一般住民が偉大だと認識しない限り、街中に銅像が建てられるはずがない。一般住民が認識できる、哲学者の偉業とは?」思考巡らしていると、ふと甘い香りが鼻に入り込んできた。思わず、目を閉じてしまうほどであった。「なんだろうこの香りは・・・」。目を開けると15m程先に美しい一人の少女がこちらに歩いてくるのが認識できた。「ああ、なんてきれいなんだろう」。哲学者についての思考なんて頭から追いやって、僕の目は釘付けになってしまった。その間にも、少女は一歩一歩こちらに近づいてくる。この気持ちをどうしたら良いのか分からず、とっさに僕は顔を伏せてしまった。「どうしよう、どうしよう、どうしたらのよいのか」。顔を伏せている姿も滑稽だなと思い顔を上げると、ちょうど、彼女が僕の左側を通り過ぎた。「ふふ」。一瞬、彼女が微笑んでいるように見えた。「うん?」疑問に思い僕はゆっくりと後ろを振り返えった。「もしかしたら、振り返って、微笑んでくれるかもしれない・・・」。そうしたら自分はどう反応するかなんて考えず、僕はしばらく眺めていた。しかし、この願望は現実のものとはならず、少女は一度も振り返ることもせず、どんどん遠くへ歩んでいった。「ああ、顔など伏せなければ良かった・・・」と未練を引きずり、後ろを眺めている姿はなお滑稽に思えたので、僕は仕方なく進行方向通り歩みを進めることにした。「もしかして!」少しの望みと共にもう一度振り返ってみたものの、すでに少女の姿は消えていた。「おかしいな、この間隔なら今頃、風車の前を通り過ぎるくらいなはずなんだけれどな・・・。うん、やっぱり歩こう」。心を決め、僕は進行方向に歩み始めた。

そこからは、特にこれといったものはなく、ただただきれいな構造をした家々が立ち並ぶ、ゆっくりとカーブした一本道を僕は歩き続けた。すると、その先は左右二方向に分岐しているのが分かった。僕は、何も考えず、左に曲がることに決めた。「そこを曲がればさらに見たこともないものがあるに違いない」。トンネルに入る前とは反対に僕はその先の見えない風景に心を弾ませていた。あと、10mで―。僕の心の高まりは最高潮に達していた。そしてついに左へ!「・・・」。そこには見慣れた風景が存在した。「えっ・・・ここ?」一瞬、僕の頭の中はニューロンどうしの電気信号が繋がらなかった。「トンネルに入る前の場所と現在立っている場所の間にこんなに素敵な街があったなんて・・・。それにしても、この見慣れた現実世界はむごすぎる!」そう思い、振り返り来た道を戻ろうとしたが、その瞬間に頭を遮る先ほどの少女。振り返って、もう一度も見ることができないことほど切ないものはない。「ここで、振り返って、あの街が存在していなかったら・・・。うん、やっぱり歩こう」。僕はこの街の風景を心の中の世界の一角に仕舞い込み歩き始めた。そして、もう一度も振り返ることはなかった。

オイラーの脳は掌に?

今日、近所の老夫婦が営む、お肉屋に行ったときのお話。(タイトルは大数学者レオハント・オイラーは8桁×8桁の掛け算を暗算で2秒で行っていたことに因んで。)

いつも買っている肉団子が、今日は作ってないということなので、1個100円のメンツカツと串カツを購入。2つ合わせて200円+消費税で216円とのこと。ここまでは何ともない。問題はここから。お財布の中身を見ると、500玉1枚と100玉1枚と50玉1枚と10玉1枚とその他小さい額ものがちらほら。ああ、良い感じに支払えないなと。一瞬、頭の中に500玉1つと10玉1つと1玉1つが思い浮かんだが、これでは、お釣りの下2ケタが95円になるととっさに判断。なんか、最適な気もしないが500円1枚で払うよりも、良いだろうと500玉1枚と50玉1枚と1玉1枚で支払。自分でも何円おつりが返ってくるかピンときていないが、大丈夫だろうと思っていた。しかし!どうも、お金を渡した、おじいさんの様子がおかしい。その店では老夫婦のどちらかが買った商品をレジに打ち込んで、それらの合計金額が記入されたレシートをお客に見せて、お金を受け取るという仕組み。すなわち、受け取ったお金をレジに打ち込んでおつりが何円かという計算は人間によって行われるものであった。そのため、おじいさんが何円、お客に返せば良いか、ブツブツ言いながら、計算していた。とっさに、自分も計算しないとまずそうだなと思い、計算しようとしたが、なんか頭が回らない。じゃあ、受け取ったお釣りの金額と購入した商品の金額の216円を足して551円になるか確かめようと方針転換。そんなことを考えているうちにおじいさんがレジから離れてきて「はい、245円」と。まだ計算が終わっていないが、とりあえず、いつもの様に「ありがとうございました」と言って、振り返り店を出ようとしたが、なんかおかしい。なんか、商品の値段の3桁目とお釣りの3桁目を足し合わせて1足りない気がした。でも、自分でもお釣りが何円か分かっていないのに、立ち止まるものかっこわるいなと思い、ゆっくり店の外へ。うん、おかしい。ポケットから携帯電話を取り出し551-216と打ち込む。335とディスプレイに。うーん・・・あまりにも間違い過ぎではないか。店に戻ろうとしたが、店の外に一度出てしまったら、負け。店に戻って「おつり違いますよ!」と言っても、外に出てからでは、明らかに怪しい。そんなこと思わず、「お金もやり取りだぞ!」と心に決め、店に戻れば良いのかもしれないが、そういうたちではない。そんなこと考え込んでいたら、お釣りが何円返ってくるか分からないで、お金を支払った自分にも非があるような。いや、551円払えば良い感じにお釣りが返ってくるのではないかと判断した直観は正しかったと思う。しかし、その後の、では何円返ってくるのかと計算できなかった理性が甘かった。加え、少し複雑な計算はおじいさんに任せるのではなく若い自分がすべきであった。仮にも、私は大学にて数学とコンピュータを学ぶ者である。オイラーの偉大さを8桁×8桁の掛け算を暗算でかつ2秒で行うだけで定義したら、電卓を掌に持っている現代人はオイラーの脳を掌に持っているのと同じだ!と考えている自分にとっては、3桁-3桁の計算を電卓に任せていることに、情けなさを感じていた。

とはいっても、脳内の素早い計算を行う場所は、いつも勉強するときに使う場所とは違うんだよなーと、お釣が90円足りなったことに対する嘆きだか、素早く計算できなかったことに対する言い訳だか分からないことを考えながら帰路に着くのであった。

言葉って

言葉って君だけのものかな

違うよね

言葉って僕だけのものかな

違うよね

 

言葉を剣にしたら、きっと誰か傷つくよね

言葉を銃にしたら、きっと誰か怖がるよね

 

言葉に対して盾を持つ必要があるのかな

必要ないよね

言葉に対して身構える必要があるのかな

必要ないよね

 

言葉って君だけのものかな

言葉って僕だけのものかな